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:XVirus さまへ。
2008-10-23 08:26:43
By:笛地静恵
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>話題がスレッドのテーマから離れているようです。
そうですね。一つのスレッドを立てるような話題ではないと思っていました。心にかかる懸念を述べた事に対して、真剣な回答を頂きました。ありがとうございました。公私共に、大きな問題が潜在しているようです。丁寧に答えていきたいと思います。あまり長くなり過ぎないように、適宜、ここや、よそでの掲示板の過去の発言を、引用しようと思っています。参照してもらうことで、論旨が明確になると思いました。

>笛地さんの懸念は、以前の私であったなら同意するところです。しかし最近、考え方が変わってきました。

>まずネットを含めて公開をされない作品についてですが、そういった作品は数多くあるでしょう。しかし消えてしまうことに懸念はありません。理由をうまく説明できないかもしれませんが、そう思うようになった背景の説明を試みてみます。
こう考える理由として、第一の理由が、

>あるコレクターが亡くなったことに大きく関係します。

ということですね。

>改めて見る機会を用意するとの言葉を信じましたが、残念ながらこの世を去ってしまいました。
弐代目氏のことでしょうか?掲示板でも、彼の死が報じられたことがあります。大コレクターであったようです。笛地も、そのコレクションの保全をと、ここに書いた記憶があります。願いは届かなかったようです。しかし、コレクションというには、その人「一代限り」。どのコレクターも等しく覚悟していることでしょう。笛地も、特に何名かの愛書家のコレクションを見てきました。が、一般人の蔵書を、そのままの形で引取ってくれる大学も図書館も存在しません。多くの親族にとっては、それは汚らしい紙ゴミの山でしかありませんでした。古本屋に、二束三文で引き取られていきました。X-virusさんには、複雑な思いがあったのでしょう。お気の毒ですが、どうにも仕様がないことだったと思います。
笛地が興味があるのは、今、作られているものの価値なのです。
第二の理由と関係します。
笛地は、西尾さんのパフォーマンスは見ていません。が、

「パフォーマンスは、その時に行われたことが作品のテーマと絡んでいたりするのです。つまり作品が消えて行くことで、強烈な印象を観客に与えることができているのだと理解しています。」
という感想には、同感できます。

「作家と観衆が時空を共有する作品の一つの形態がネットではないかと思う」
と言うところも同じです。同じ思いを、みどうれいさんの『巨大お胸の掲示板』に、書きこんだことがあります。

>「作家と観衆が時空を共有したパフォーマンスの一種」
という点について。他の方の作品には、語弊があると思いますので、自分の例をあげますと、戯画創造さんのサイトに発表された作品には、一夜で書かれた即興演奏のようなものがあります。あそこでしかできない体験でした。感謝しております。
話しを単純化するために、ここで「送り手」と「受け手」の二者の関係に単純化してみます。その間を往復する情報が、「作品」です。

>ネットという媒体の場合、反応を受け取るシステムが無い限り、相当能動的な反応しか見れないのだと思います。
この「能動的」というのは、「積極的」と同じことですね。積極的に意見を言ってくる人の感想しか読めないということです。

>例え話が有効なものかは判りませんが、演劇のようなパフォーマンスの場合、観客数、拍手の数、ファンレター、評論と様々な形で反応を見ることが出来ますが、ネットの場合、的確なシステムが無いと、反応は得にくいと思います。
この「的確なシステム」をどのように作るかという課題が残っていると思います。

>それと消え行く作品についてですが、作品には大きく分けて2つあると思うようになりました。観衆へ訴えるために生まれた作品と、創作意欲を消費するために生まれた作品です。製作した作家も、実はどちらに分類される作品か判らないまま作品を生み出していることがあります。
2つに分類されています。
1「観衆へ訴えるために生まれた作品」
2「創作意欲を消費するために生まれた作品」
正確を期せば、
1\x{2212}1「(送り手が)観衆へ訴えるため(と言う目的意識を持って)生まれた作品」
1\x{2212}2「(送り手が)観衆へ訴えるため(と言う目的意識を持たないで)生まれた作品」
2\x{2212}1「(送り手が)創作意欲を消費するため(と言う目的のためだけ)に生まれた作品」
2\x{2212}2「(送り手が)創作意欲を消費するため(という目的のためだけではなく)生まれた作品」
>観衆へ訴えるために製作したのにも関わらず、観衆に見てもらうためのファクターを持たない作品もあるのです。一方、創作意欲を消費するために生まれた作品であるにも関わらず、観衆に訴えかけてくる作品もあるのです。
いずれも「送り手」側の目的意識による分類ですから、「作品」が、「受け手」の側でどういうように受けとめられたかという結果とは、差異が生じるでしょう。

>創作意欲を消費するために製作されたものの場合、もともと見せるために製作されたのではないので人知れず消えて行く運命であったのです。それに光を当てるのが良いのか悪いのかは判断つきかねますが、もともと消えて行く運命のものなのですから、人知れず消えても致し方ないのではないでしょうか。
2\x{2212}1「(送り手が)創作意欲を消費するため(と言う目的のためだけ)に生まれた作品」
非常に純粋であった場合は、「受け手」となるのは、「送り手」ひとりだけということになるでしょう。これも、笛地は同感です。だんごろうさんに「創作」するということと、「公開」することは、全く別の行為であると申し上げてきました。

>ただ、そうした作品を偶然にも目にして、それが持つ力に惹かれたような時、ついそれを大勢の人と共有したいとう衝動を抑えられなくなることもあります。
1\x{2212}1「(送り手が)観衆へ訴えるため(と言う目的意識を持って)生まれた作品」
笛地は、この「観衆」という「送り手」が、一人を想定している作品に出会ったということになります。

>しかし本当にその作品の力を多くの人が感じられるのでしょうか。

ケース・バイ・ケースだと思うのです。たとえば、墨絵についての観賞の経験が不足している場合、墨一色による水滴の描写から、それを跳ね返す巨大少女の白い肌の瑞々しさを、即座に感得できるかどうかには、個人差が生じます。
>先日トークショーを拝聴して思ったのは、作品を受け取る側が本質の部分を感じられないとき、作品の価値は無いに等しいのではと思ったのです。どんなにか美しい彫像を作ったとしても、受取手がいなければ、それはただの土塊なのではないでしょうか。作品の価値は、判る人がいてこそなのだと思います。
難しい問題です。「作品」の「価値」は、「送り手」から「受け手」に渡った時に発生するのかどうかという、古くからの美学の問題と関係します。

1\x{2212}2「(送り手が)観衆へ訴えるため(と言う目的意識を持たないで)生まれた作品」

笛地は、「送り手」にとっての2\x{2212}1の「作品」の価値は、「受け手」のいない段階で、ある程度、成立すると考えています。

>作家だけが判る作品もあるかも知れません。
 あると思うのです。といっても、「受け手」が、「作品」を完成した時点で、すべての目的が明瞭になっているということではなくて、長い時間が経ってから、ああそうだったのかと判るということもあると思います。

>結局、判る人の手に渡った作品は幸運だったと言えます。確かに公開されれば、正当な継承者の手に渡るかもしれませんが、不当な扱いを受けるかもしれません。リスクが伴うのです。
 複製が不可能な1点物の美術「作品」(油絵や彫刻のような作品)を想定した場合、大きな問題が、ここにはあると思うのです。ネット上の複製が可能な「作品」を想定した場合に、このリスクを最小限にする方法として、笛地や戯画創造さんは、クローズド・サイトという道を選びました。他のも、いらっしゃると思うのです。
>もし対策というものが、リスクなしで正当な継承者の手に渡る、あるいは正当な評価のみを受ける方法と言うのであれば、大いに議論する価値はあると思います。興味深い議論になるでしょう。いかがでしょうか。
 二つに別れますね。
A:リスクなしで正当な継承者の手に渡る(方法)
B:正当な評価のみを受ける方法
 笛地と戯画創造さんが、選択したのが「クローズド・サイト」という方法でした。アメリカでも多いですね。
戯画創造さんの運営方法は分りませんが、『笛地静恵を囲む会』の場合、会員の二名以上の推薦があれば、誰でも入会可能です。ただ、同種の業界内という現状になっています。
A:リスクなしで正当な継承者の手に渡る(方法)
の実践です。
もうひとつは、会員は、特定のペンネーム(本名ではありません)によって発言しています。笛地は、日本とアメリカの掲示板の質の差異は、匿名の発言の人数の差異によるものだと思っています。「受け手」のみなさんには、個人としての発言を積み重ねてもらっています。不必要なリスクを避けることができます。
B:正当な評価のみを受ける方法
でもあります。
アメリカで起っている多くのことは、タイムラグがあるにしても、日本でも生じるというのが、笛地の従来からの考え方です。日本のネットは、匿名の発言をする人数が減少する事によって、問題点が改善されていくだろうと思っています。
もう一つ、これは、全くの偶然なのですが、会員の方は、全員、自身のブログをお持ちです。様々な関心を持っていることがわかります。「GTSフェティシズム」というのは、彼らの多種多様な趣味の一つに過ぎません。一つぐらいは、他者に公開できない娯楽を持つことも、あまりにも情報が公開されている社会の中で、健全なライフスタイルを保つためには、必要な行為なのだろうと、笛地も思うのです。あまりにもきれいな水には魚は住めません。

笛地にしても、「笛地静恵」というペンネームで公開しているのと、ほぼ同じような文字を、他の二つの分野で公開しています。(三つありましたが、今は二つにしています。)何にせよ、一つだけという方向性は、現代では良くないのではないかと思っています。
リスクを回避する対策の例として上げて起きます。
笛地が気にかかっているのは、「送り手」の問題であるよりも、むしろ「受け手」の問題であるのかもしれません。
A:リスクなしで正当な継承者の手に渡る(方法)
この「正当な継承者」という「受け手」の登場には時間的な差異があります。昔からの「作品」で、それが優れたものであっっても、目にすることができない「作品」が多数あります。
B:正当な評価のみを受ける方法
新しい意見の中に含まれる「正当な評価」を受ける可能性が、減少しているのではないかと心配しているのです。
笛地は、長期間で考えれば、アメリカの状況からして日本のネットの環境は、良い方向に変化していくだろうと思っています。楽観的な展望があります。
気にかかっているのは、今、ここでの問題なのです。




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