巨人ぼうやの物語

原題:The Giant

著作:ウィリアム・ペーヌ・デュボア、翻訳:渡辺茂男

あらすじ

1950年の春、児童向け旅行ガイド「クマさんの世界おたのしみ旅行」を執筆するために、世界中を訪れていた "わたし" は、あるヨーロッパの町で不思議な出来事に遭遇した。

最初の出来事は、エル=ムチャーチョ・コンパニーア(少年協会)という団体から宿泊中のホテルを立ち退くように書かれた手紙を受け取ったこと。それから夜間に行われた防空演習に伴う避難訓練のときに、ホテルの前の建物で戦車のようなエンジン音がしたのを確かめようとしたが、サーチライトのような強烈な光で目を眩まされてしまったこと。ホテルの前にある建物の窓に現れた巨大な目と、目があってしまったこと。

結局、目が合ったことから、少年協会の事務局長フェルナンドと会うことになり、そこで秘密にすることを条件に、巨人の少年の存在を明かされたのだった。

巨人の少年は現在、少年協会の管理する潤沢な資産の元、密かに生活をしていること。存在を隠すのは、人々が巨人の存在を否定してきた過去の事件から、秘密にしておくことが一番であると考えてのこと。これまで何か問題が起きるたびに、住居を移転してきたこと。これまで何度も苦渋を飲まされたこと。フェルナンドをはじめ、少年協会の協会員たちは、少年に愛情を持って接していること。など、フェルナンドは、すべてを明したのだった。

わたしは、少年と直接会ってみたくなり、何度も掛け合ったがフェルナンドは、なかなか首を縦にふることはなかった。しかし、あまりのしつこさに、フェルナンドが折れて会うことになった。フェルナンドは、少年と直に接して恐ろしい目にあえば二度と会いたくないと気持ちが変わるかもしれないと考えたのだった。

そしてわたしは、何か問題が起きても少年協会に責務追求しない旨の誓約書を書き、直接少年と会うことになった・・・

解説

児童書です。上の紹介文を読むと、まるでホラー作品のようですが、実際には子供がワクワクしながら読むような文体で書かれています。

最初の出だしは、事件が事件を呼ぶ、謎が謎を生む、ホラーのようなサスペンスのような始まり方をするので、紹介文を書くと、ホラー作品のような印象を受けるかもしれません。この手法は、ジュール・ヴェルヌの作品に見られますが、デュボアは少年時代にジュール・ヴェルヌの大ファンでしたので、デュボアの作風はその影響を十分受けています。

ヴェルヌの作品と比較することは、デュポアはどう思うかは分かりませんが、ヴェルヌの作品の良さを十分に知り、リスペクトしていることは間違いないので、きっと比較されても怒りを買うことは無いでしょう。デュポアの物語の展開の仕方は、ヴェルヌ作品と同じ手法を用いていることは、デュポアの作品の評価を高めている要素のひとつだと言えます。

SFでは真実味をいかに作品に与えるかが課題になりますが、それとは別に、物語の特性ともいえる読者をどのようにして特殊な背景を持つ世界に引き込むのかもクリアしなければなりません。ヴェルヌの作品は、何かしら事件が起き主人公が事件の核心に迫るという、サスペンス仕立ての組立で物語が進行します。起承転結の王道を行くスタイルですが、ヴェルヌ以前と以降では空想小説のスタイルは大きく変化しているので、ヴェルヌがSFの始祖とまでは言わないまでもSFのスタイルの1つのスタイルを確立したことは間違いありません。こうした物語の構成は、アイザック・アシモフやロバート・A・ハインラインの作品にも見ることができます。

また、ヴェルヌの作品には、科学的な洞察力を持ったた主人公の目を通して写実的に描かれていますが、巨人ぼうやの物語も主人公ビルの目を通して巨人の姿が写実的に描かれています。ビルの職業や性格を様々なエピソードから、第三者的な立場で物事を冷静に分析する能力に長けていることを印象付けしていますが、こうした手法もヴェルヌをお手本にしていると言えます。さらにデュボアが素晴らしいのは、子供たちにも理解できる科学的根拠を用い、また同時に物語の展開にも子供の理解を前提にして組み上げられていることです。これもヴェルヌをお手本にしているところと言ってよいでしょう。

このように、デュポアは非常に良くヴェルヌ作品を理解している上に、それをデュポア自身のものとして確かなものにしています。SF作品の課題とも言える、科学的に実感できるように表現された骨格が物語の背景に感じられるように組み立てられた展開は、単にメソッド踏襲するだけでは成し得ないデュポアの才能であると思います。

ここで、少し物語に触れておきたいと思います。

おもちゃのようにゾウやトラックを持ち上げる男の子をどのようにして教育するのか、躾けられるのか、とても良く考えていると思います。おとなしい性格の男の子ですが、それでも興奮してしまうと、誰も止めることなどできません。ビルの体験を通して、そうしたことが実感できるように描かれています。実にリアルな体験をビルとともに読者はすることになります。もちろん挿絵も多くありますから、写実的な表現を補足して、子供にも理解できるよう工夫されています。

フェルナンドが写真アルバムを通して、少年の生い立ちをビルに話して聞かせますが、これは挿絵を写真のように思わせるテクニックです。物語の前半は、フェルナンドの目を通して語られた巨人の少年の姿になります。読者は直接フェルナンドの話を聞いているかのようになりますが、実はビルの体験を通してフェルナンドの話を聞いているので、ビルの心理描写を通してフェルナンドの話の真実味を高めるように仕組まれています。最初はビルにとって謎だらけの巨人の子供ですが、フェルナンドの話が進むにつれて、よく知っている男の子へと変わっていきます。それはこの本の読者にとっても同じで、フェルナンドの話が終わったときには、巨人だけれど、男の子として普通に接することができるのではないかと思われるほど、親近感を持つことができます。

面白いのは、そのようにして巨人の子供に親近感を持たせ、巨人の子供の保護者になりたいとビルが思うようになる頃、つまり読者にビルが上手に少年を扱うことができると思う頃合いに、現実は違うのだと実感させる事件が起きることです。

ビルは何度もフェルナンドに少年に直接会いたいという申し入れをしますが、フェルナンドはなかなか会わせてくれません。フェルナンドの考えは慎重すぎると、この物語の読者がビルに入れ込んだ頃になってから、ビルに根負けしたフェルナンドが少年に会うことを許すのです。しかし現実はビルが想像していたものではなかったと、ビルが初めて少年に会ったとき思い知らされることになります。フェルナンドは慎重でしたが、それにはやはり理由があったのだと、読者はビルを通して実感することになります。

ゾウやライオンをペットのように扱う少年に驚かされますが、ビルが、少年がおもちゃにしているトラックに乗り込んだとき、本当に恐怖を味わうことになります。少年の何気ない行動は、その体の大きさの持つパワーによって、大災害にもなり得ることをビルは思い知らされるのです。少年がもし暴走したら誰にも止めることはできないのです。それでもビルは、少年の無邪気さをよくわかっていましたから、物事が大事に至らなかったこともあり、また少年自身がビルのことに好意を持ったことで、フェルナンドが考えを変えることになります。それは物語の転機点であり、そこから新しい物語が始まるのです。

子供向けの物語として構成されているにも関わらず、このように仕掛けが施されて、大人が読んでも満足できるような物語に仕立てられているのです。いい忘れていましたが、挿絵も1枚を別にしてデュポア本人の手によるものです。デュボアは児童文学を執筆するだけでなく、挿絵家としても活動していました。本を手に入れることは難しいかもしれませんが、図書館などでは借りられるところがあるようですので、機会がありましたら読んでほしいものです。

ところで、少年の名前のように物語に登場する「エル=ムチャーチョ」ですが、少年協会の人たちがスペイン系らしく、スペイン語の綴りは「el muchacho」、意味は「少年」ですので実は名前ではありません。みんなに「ぼうや」と呼ばれて愛されている証拠ですが、この少年の名前は最後まで登場しません。

なお原著者の名称表記は、本の表記に従いました。

Published : 2023.07.23
Update : 2023.07.23

[ Prev page ] [ Category index ] [ Next page ]

You can find the work by a keyword.

Keyword: