シーズン2で打ち切りになったとはいえ、エポックメイキング的なSF作品の一つであることは間違いなく、今なお根強いファンを持つことで作品の与えた影響が判ります。
巨人の惑星に不時着した乗組員と乗客らが、地球に戻れる日を信じて生き抜く様を描いた物語で、連続ドラマでありながら一話完結のミステリーでもありました。見方によっては、米国で人気のあったミステリーゾーン(The Twilight Zone)と同じ題材を巨人の国というテーマでカモフラージュした物語だったと言えるかもしれません。
ミステリーゾーンが米国で終了した後、多くのドラマがミステリーゾーンを模倣しました。アレン氏の制作したテレビドラマにもそうした傾向があり、ミステリーゾーンの影響を色濃く受けていると言えます。しかし演出や映像的にはミステリーゾーンとは異なり、純粋にエンターテイメント性を追求した製作を行っていました。未完成な技術も数多かった中で、アレン氏の制作したドラマによって完成度が高められた技術も多かったと言えます。こうした映像によって見せる手法は、その後のアレン氏の制作した映画に受け継がれています。
物語の方は、打ち切りという事もあり、結末がないまま終了してしまっています。しかし、結末のヒントとなる伏線は、あちらこちらに見かける事ができます。アレン氏が結末をどのようにまとめあげようとしたのかはアレン氏亡き後では謎という事になりますが、その手がかりは物語の中にちりばめられています。
作品中際立ったエピソードとして挙げておきたいのは、オリジナルでは第2話「Ghost Town」として放送され、日本では第13話「地球の町はこわい町」です。このエピソードだけは、他のエピソードとは全く違うものでした。
巨人の国での物語ですから、地球人のサイズではない巨大な物に取り囲まれた中での映像ばかりと思いきや、地球人サイズの街に巨人が現れたかのエピソードでした。
実は巨人が作ったミニチュアの街に、乗員たちが紛れ込んだのですが、街角にふいに巨人の女の子が現れるシーンはドキッとさせられます。この女の子は歯にブリッジしている子供なのですが、子供ならではの素直で恐ろしいほどの残酷さを見せつけてくれます。ただの子供ではありません。巨大な子供なのです。子供であっても地球人には太刀打ちできない力を持った巨人なのです。地球人にとっては危険極まりない存在。大人の巨人以上に危険な存在。それがこの巨大少女なのです。
巨大な少女の悪戯は、段々とエスカレートしていきます。少女のちょっとした意地悪が、地球人にとっては命に関わるほど危険なこなのです。このシリーズを通して巨人の力に翻弄される地球人の姿を見るのですが、それは巨人達の世界で息つく暇の無い緊張の中での事であり、同じ巨人であっても普段生活している町中で不意に巨人が現れる事は、別の質の驚きなのだということに気づかされます。
最初に触れたように、舞台が巨人の国である設定は、当時の撮影技術では相当に厳しい題材であったといえます。試行錯誤の連続であった、言うなれば実験に次ぐ実験であったのは、想像に難くありません。事実、回を重ねる毎に特撮の出来映えは良くなっていきます。
上の映像と下の映像を比べてみてください。上の映像は第2話「Ghost Town(邦題:地球の町はこわい町)」で、下は第15話「The Bounty Hunter(邦題:20メートルのでっかい少女)」です。それぞれ映像的に良くできていますが最初のころの映像では、巨人と地球人が同じフレームに入る事は珍しく、同じフレームにいるときのパースの狂いや色の狂いなどの映像技術レベルも低く、同時に演技においても目線なども不自然なところが目につきました。
回を重ねる毎に、そうした問題は徐々に解消されていくのが良く判ります。シーズン1の後半では、スタッフの技術はもちろん演出手法や演技も格段に良くなっています。
さらにシーズン2の終わり頃には、今と大して変わらないレベルに達しています。下の映像は同じフレームどころか、巨人の手の上に乗った地球人の映像や、細かい檻の桟越しに見える巨人の姿など、映像的に大きく飛躍している事が判ります。このような技術的な躍進が、このドラマだけで行われた訳ではありませんが、毎週こうした技術を使って試行錯誤を重ねた結果、完成度が高くなったことは想像に難くありません。
最初に触れたように、不時着した宇宙船スピンドリフト号をベースキャンプに、地球人が小さな小人として巨人の追跡から逃れつつ生活する様が中心に描かれています。巨人達の生活レベルは制作当時1960年代後半のものでした。また研究所の研究者達の様相は、冷戦当時のソビエト連邦を彷彿とさせるものでしたが、これは小人を解剖しようとする研究者に悪者のイメージがあり、その悪者イメージが冷戦時代のソビエト連邦という形で表現されたのだろうと推測しています。
巨人達の生活レベルが制作当時のものであったのは、制作上の都合からなのだと思います。制作当時の生活レベルということであれば、巨人国の風景は普通にその辺りで撮影でき制作し易いからです。しかし、本当にそうだったのか疑問が残ります。
スピンドリフト号がロサンゼルス空港を飛び立ったのは、1983年のことです。しかし、スピンドリフト号のような宇宙空間まで利用できる航空機は、現在もまだ存在しません。アレン氏が15年後の世界をどれほど予想していたかは判りません。本当にスピンドリフト号のような宇宙往還機が実現できると思ったのかもしれませんが、もしそうではなく、15年後も大して変わらないと思っていたのなら別の背景が隠れているように思えます。
つまり巨人というのは実は私たちで、遭難した乗員達は別世界の人間なのかもしれないのです。