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愛すべき巨大女

2002.08.15

巨大女性事始め

映画ポスター 1958年に公開された映画「妖怪巨大女」は、作品の出来映えは別として、多くの男を虜にしました。そのカルト的な人気は現在にも続き、多くのファンを抱えている映画です。

そもそもこの映画は、ゴードン監督作品「戦慄!プルトニウム人間(原題:THE AMAZING COLOSSAL MAN)」にインスパイアされて製作された映画です。しかし、ゴードン監督作品に比較して、内容も特撮技術も大したものではありませんでした。そうした意味では、歴史的な巨人の映画は、ゴードン監督作品であるはずです。しかしこの映画のパロディやオマージュと思える作品は、今なお製作されているのに対し、ゴードン監督作品は歴史のマイルストーンに留まってしまっています。

とても傑作とは言えないこの映画に、こうした人気があるのはなぜでしょうか。その秘密は、GTSという言葉に集約されています。GTSとは、Giantess(巨大女)を省略した表記です。しかし単なる省略形ではなく、そこには秘められた愛情表現が含まれているのです。

それまで巨人といえば男であるという概念をやぶり捨てたから、この映画が奇妙な人気を得たと考えるのは早計です。女性の巨人というものは、誰でも持っている深層意識に隠されたある象徴なのです。それが、この映画で符合してしまった人が、この映画の奇妙な虜になってしまったのだと言えるでしょう。

巨人の意味するもの

フロイトによれば、夢における巨人は母親を表す記号です。人がこの世に生まれでて、最初に認識した大人が母親であるとしています。そして母親は、自分を庇護してくれる神のような存在であり、そして巨大な存在でもあるのです。混同してはならないのが、マザーコンプレックスと巨人とは、同じ意味ではないということです。巨人には多かれ少なかれ、自分より強い存在を意識させるという意味合いが含まれているのです。

しかし、夢ではなく実際の作品において、巨人が母親を示す記号を持つかというと、そのようなことはありません。多くの場合、巨人はエンターテイメント性を持って存在します。言い換えれば色物のように扱われています。母親や力の存在というよりも、サーカスなどの見せ物と共通する符号があるのです。やがて色物的な存在から、神懸かりな力の象徴へと変貌していくことになりますが、1950~60年代の映画作品では見せ物的な巨人の匂いがプンプンします。

さて、とても傑作とは言えないこの映画に、こうした人気があるのはなぜでしょうか。その秘密は、GTSという言葉に集約されています。GTSとは、Giantess(巨大女)を省略した表記です。しかし単なる省略形ではなく、そこには秘められた愛情表現が含まれているのです。

女性の巨人が登場するという点を除くと、この作品は何も取り上げるべきところがなくなってしまうような映画です。しかしその女性が怪獣のように巨大になるというアイディア。これだけでも公開当時には衝撃的なインパクトを与えたということなのでしょう。だからといって、この映画が奇妙な人気を得たと考えるのは早計です。実は女性の巨人というものは、誰でも持っている深層意識に隠されたある象徴なのです。

実際、多くの国の伝承や神話に巨人の女性が登場します。自分より強い存在の象徴としての巨人への憧れが、こうした物語を生み出したのです。巨人女性の多くは、女性らしい行動をとります。そうした女性らしさに強大な力を付与されて登場するのです。そうした物語は、男性が女性に感じる強さを象徴しているように思います。歴史的、潜在的ともいえる巨人の象徴。その象徴に、女性の嫉妬心という身近な存在使って具現化し、巨人の存在を実感させてくれたのが、この作品だといえるのではないでしょうか。

女性との付き合いで苦労する男性、または女性という存在に恋いこがれる男性にとって、この作品によって単なるわがままな動物であったのが、気まぐれな女神に変えられてしまったのです。それが一種独特の特別な崇拝の対象として巨人女性を見るようになったと言っても過言ではないと思います。

愛された巨大妖怪女

映画ポスター 改めてポスターを見てください。

この映画はアメリカの田舎町での出来事という設定ですので、ハイウェイは出てきません。つまりポスターのシーンは映画には出てこないのです。こうしたポスターは、良くあるので驚くことではないかもしれません。それでも、当時のテクノロジーの象徴的でもあった高架を入れ、なおかつ巨大な女性を表現したこのポスターはインパクトの強いものであったことは間違いなさそうです。このポスターは多くのパロディの対象となりました。


ビデオパッケージ 左の写真は映画ATTACK OF THE 50ft. WOMANのビデオパッケージです。妖怪巨大女の1993年リメイク版のビデオです。リメイク版は日本で「 ジャイアント・ウーマン」というタイトルでTV放送されているので見た方もいらっしゃると思います。原作を忠実に再現するだけでなく、原作のストーリーに手を入れて原作を超える出来になっています。オリジナルとは異なり、リメイク版は特撮の評価もそれなりにあり、ここで使った特撮技術はジャイアントベビーへ引き継がれて使われています。


ビデオパッケージ 原題で Attack of the 60foot Centerfold、邦題で「アタック・オブ・ザ・ジャイアントウーマン」というほとんど同じようなタイトルで作られた映画があります。

この映画は巨大生物映画へのオマージュ的な作品で、あらゆる巨大生物映画のシーンのパロディが出てきます。巨大生物の映画や古い白黒時代の映画、それも特にゴードン監督がお好き方は見れば楽しめるでしょう。そうでない方には、ちょっと退屈な映画かもしれません。


Femforce表紙 しばしばアメコミでは、映画ポスターのパロディが登場します。このコミックは、タイトルも「ATTACK OF THE 50ft?」で、正々堂々と取り上げています。

これはACから販売されているFemforceシリーズの第5号です。表紙で巨大She-Catが、映画のポスターと同じポーズをとっています。これを皮切りに、第30号以降は巨大化した女性が暴れたり活躍するシリーズに変化していったというおまけ付きです。そしてFemforceはGTSコミックとしての地位さえ獲得し、カルトな人気を誇っています。


左は1つ上のコミックの裏表紙にあった広告です。表紙が表紙ですから、パロディのモチーフとして「ATTACK OF THE 50ft. WOMAN」の映画ポスターを使ってバランスを取ったのかもしれません。タイトルはもじって「REVENGE OF THE 50ft. WOMAN」。


JUDGE DREDD 表紙 コミックといえば、QCから販売された JUDGE DREDD 第14号の表紙(左図参照)でもポスターのパロディが使われています。コミックにはしばしば巨大化する人間が登場しますが、巨大化した人間が女性の場合には、この決めポーズを作品の中でするのを目にします。


ダイナミックにお店を跨いでの宣伝は、セブンイレブンの新聞広告。お決まりのポーズで構えていますが、タイトルは巨人獣のパロディ。果たして、この洒落が判る読者が何人いることやら。

かなりマニアックな広告と言えますが、広告に関しては数知れないほど多く存在すると思われます。

著作権の国事情

アメリカの著作権事情は、ハリウッドが握っているといっても過言ではないでしょう。ハリウッドの利益につながるようなパロディは喜んで受け入れてくれる傾向にあります。しかし、これがハリウッドの利益につながらないと見るや、とたんに表情を堅くするのです。

しかし多くのパロディ作品は、そうした事情とは関係なく生まれます。二匹目のどじょうを狙う作品もありますが、パロディ作品の多くには愛情を感じる作品があります。

妖怪巨大女のパロディ作品には全て、オリジナルへの愛情を感じます。これほど愛される映画になるとは製作スタッフも思わなかったことでしょう。このようにBムービーには独特の雰囲気があり、観客も良く分かって楽しんでいるのです。

日本では

ところで、日本にはこうした愛でる対象としての巨大女性はいるのでしょうか。

もちろんいます。

中でもウルトラマンに登場した巨大フジ隊員のインパクトは強烈で、これでGTSの虜になった人は数多くいます。ウルトラ警備隊の中でヒロインであったフジ隊員。彼女は小柄な体格とは対照的に、女性ならではの包容力を見せてくれました。そうした外観と内面が逆転して現れた上、巨人としてのフジ隊員に余りに無力な警備隊の力が、自分の力とオーバーラップしてきた子供達は少なくなかったはずです。

しかし彼女は主役ではありませんでした。そのためでしょうか、マニアックな存在として知られるに留まっています。強烈な印象を与えるフジ隊員ですら、ゴジラやガメラの前には影が薄く、怪獣図鑑に名を留めるに過ぎない存在となってしまいました。

妖怪巨大女ナンシーもマニアックな存在です。一般的には知らない人のほうが多いでしょう。それでも広告にパロディとして登場するのはなぜでしょうか。それは作品の存在を知らない人が見ても、十分なインパクトを持っているからに違いありません。

妖怪巨大女についての追記

妖怪巨大女は、当時、映画界が模索していた色気の演出方法の一つであったとも言えます。

当時の映画は、肌の露出すら慎重に扱われていました。一般的に公共の場で色気を振る舞う事に対してアレルギーを持っていた時代ですから、しかたのなかったことだと言えます。それでも、いかにセクシーな映画を撮るか、演出方法を工夫していました。実際、南の楽園でフラを踊るダンサー達は胸を露にしていましたし、メインキャストの女優も濡れた衣装でセックスアピールをしていました。何かしらの必然性があれば許されるという考え方は、宗教家達の目を欺いたルネッサンスの巨匠達にも通じる所です。

巨大化したために着る服がないので、裸でもしょうがないという必然の元に、エロティシズムの演出をもくろんだのが妖怪巨大女であったのだと考えても間違いないでしょう。さすがに全裸は問題ありすぎるので、申し訳のために布切れをまとっています。この姿で街に繰り出せば女性の体は衆目にさらされてしまいますが、それも成り行き上しかたがないと言い訳しながら、その実エロティシズムを表現したのです。

当然、エロに飢えていた当時の男達は、衝撃を受ける事になります。そうして製作側の思惑以上に、衝撃的な映画として大きな足跡を残す事になりました。

ところで、着る服が無いという言い訳は、最近どこかで聞きました。成人向け作品として制作された「全裸巨大少女(成人向け作品)」のキャッチですね。半世紀を経て、同じような考え方で作品が出来るとは、妖怪巨大女の制作スタッフも考えなかったと思います。